「江ノ島あたりで砂の城をつくる会」について

この会は、1995年頃、藤沢市辻堂の住人である笠井尚紀を中心につくられました。会員は、常連会員、いいかげん会員、幽霊会員、特別会員の4つに分かれています。

常連会員は、謎の税理士・倉林しずお、ラーメン屋のおやじ・知久博明、酔いどれデザイナー・村上祥子、葬儀場のアイドル・前田ヒロミ、怪僧・吉田ディズニー、歌うイラストレーター・渡部パタの6人がおり、築城現場では大きな顔をしていますが、日常的にはろくに機能していません。

いいかげん会員は、安田“マッサージ”ミチヨ、ザ・ラッパ屋サトウ、金毛のなおちゃん、大嶽ヒゲ男などという得体の知れない男女が10名ほどおり、来たり、来なかったりしています。

幽霊会員には、忘恩イラン人オミディ、伊藤“タイポス”負一をはじめ、無慮30名ほどおりますが、すでに幽界に入った者も多く、存在しないも同然です。

特別会員はこのサイトを立ち上げた幸山義昭のみで、言い換えれば彼のためにつくられた制度です。01年に入会したばかりですが、築城現場におけるウデが確かなことに加えて、アウトドアのタフな環境に強いという特技があること、怪僧・吉田ディズニーにニラミが効くことなどから、会の将来を担う人材と期待されます。

会長の笠井尚紀は本業コピーライター。「早い・安い・上手い」ことには定評があるので、どんどん仕事を出すようにしましょう。
そんな笠井尚紀が、何故、砂の城に興味を持ったのか?
次のようなエピソードが、会の歴史に刻まれています。

城

10年ほど前のことです。休暇で伊豆の海岸に来ていた笠井は、半分砂に埋もれた100円アイスクリームのスティックに目をとめました。彼は何気なくそのスティックを手に取り、「砂山の 砂を 指で掘ってたら 真っ白に干からびた アイス・スティックが出てきたよ」と、石原裕次郎の替え歌を口ずさみました。そう、笠井は太陽族にあこがれた少年のなれの果てだったのです。
裕次郎ポスターその時、笠井の耳に、波打ち際で遊ぶ子供の声がとび込んできました。「お母さん、砂のお城を作ってるんだけど、どうやったら屋根と窓がいい形になるかわからないんだ」
実際に、そんな不自然な言葉を口走る子供がいるわけがないので、これは偉人伝説にありがちな創作かと思われますが、とにかく笠井の頭の中に、「砂山をアイスクリームのスティックで削れば、造形的な細工ができるかもしれない」というアイデアがひらめいたのは確かなようです。
その日から笠井は、毎年2、3回も江ノ島の海岸に通い、アイデアを形にするための努力を続けました。人々は「見てみい、あの馬鹿たれが、またわけのわからんことをやっとるでヨ」とあざけりました。しかし笠井は世間の冷たい視線に耐え、ついにプロジェクトを成し遂げたのです。プロタイプが完成したとき、笠井は砂浜で「できた、できた」と叫び、狂人のようにレゲエのステップを踏んでいたと伝えられます。「その時、中島みゆきの『ヘッドライト・テールライト』のメロディが聞こえた」と証言する友人もいますが、事実であるかどうか確認されていません。
続く日々も笠井は同志とともに築城の技術をみがき、数年後には「海道一の砂取り」と呼ばれるようになりました。しかし笠井は、「12チャンネルのTVチャンピオンに比べれば、私の技術など児戯に等しいものです」と語っています。とはいっても、そもそも砂の城づくりは一種の児戯に含まれるわけですから、これはこれで立派なことではないでしょうか(なんのこっちゃ?)。

砂の城の「通」によれば、実は笠井は生来の不器用者で、細工は決して上手くないようです。それでありながら会長の地位に君臨していられるのは、周囲に優れた技術者を集め、その成果を横取りしているからと考えていいでしょう。このようなことが長く続くわけもなく、遠からずクーデタが起きるのではないかと見られています。
(2002年記)

 

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